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優秀賞
吉本憲生
東京工業大学 大学院 人間環境システム専攻1年 23歳

タイトル
建築に「公共性」は問えるか

1. はじめに

「公共性」とは何か。公共という言葉は、建築の世界では聞き慣れた言葉である。それは主に、公と私、公共施設などプログラム・機能に関係する言葉である。住まいを扱うとき、それは「私」の空間である住まいに「公」は関与可能か、という問いに聞こえそうであるが、本論はそれとは異なる意で問いを発するものである。では、一体どのようなものか。なぜそれが問題になるのか。
それらについて述べるために、まず「公共性」の意味について確認する必要がある。「公共性」についての歴史的な議論や、対立関係を論じたものとして、政治理論・政治思想史を専門とする齋藤純一氏著の『公共性』が挙げられる。齋藤氏はこの冒頭部分でハンナ・アーレントの言葉を引用しながら「公共的空間」について以下のように述べている。

……この文章は、「公共的空間」を二つの政治的価値に関係づけている。一つは、〈自由〉である。この言葉は、アーレントにおいては、抑圧から解放されている以上の何かを指している。それは「イニシアティブ」、何かを新たに始めることである。公共的空間は、そうした始まりとしての自由が、言葉や行為という形をとって私たちの前に現れる空間である。もう一つの政治的価値は、〈排除への抵抗〉である。「椅子は空いたままだが席はもうけてある」……公共的空間は、あらゆる人々の「席」=「場所」がもうけられている空間である。(齋藤純一著『公共性』岩波書店 2000年)

この「自由」と「排除への抵抗」が、「公共的空間」が持つ政治的価値だと述べているのだが、政治とは、つまり複数の主体による集合的意思決定の場である。その集合的意志決定の契機は、狭義の政治だけではなく日常的に行われているものであり「すまい」の問題にもつながっている。本論においても、「公共性」という言葉を、この「自由」と「排除への抵抗」を志向するものとして扱い、都市の「すまい」を考える上でもコミュニケーションの問題として、また街のあり方の問題として重要な概念として位置づける。なぜなら街とは、異なる背景、動機や趣向を持った複数の主体が生きる場所であり、様々な利害関係の衝突や調整によって形成されたものであるからである。この問題を扱うことは、郊外化や家族や安全の問題など、「すまい」に関わる問題を包括的に問うことである。なぜなら「公共性」を問うということは、それら諸問題に対する主体間のコミュニケーションが関わっていく環境を問うことであるからである。この「公共性」の問題に対して、政治的、経済的、社会的側面のみならず、そられとの関わりの中で生み出され、街を形成する一旦を担っているはずの建築がいかに関わることができるのか、あるいは建築の専門家がいかに関わることができるのだろうか。これが本論での主たる問題意識である。
本論は、この「公共性」という観点から「すまい」、つまり建築とそこに生きる人々のあり方を捉え直し、建築を「公共的空間」に参加させる試みである。これは、建築の可能性、あるいは建築の専門家の可能性を問い直すための試みであるともいえる。
このような関心のもと本論は以下のように構成される。まず「公共性」に関する齋藤氏の議論を参照しつつ、それらを現代の都市における可能性と限界として捉え直す。つぎにそれらをふまえた上でその「公共性」にいかに建築が関わっていけるかについて考察する。最後に、その建築と公共性の関わりを実現する一つの仮説を提示したい。

2. 「公共性」の現代の都市における可能性/限界

「公共性」の現代の都市における可能性/限界について論ずる前に、「公共性」と「共同体」の差異について言及しておく必要がある。齋藤純一氏はこの違いについて以下のように述べている。

共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間である点である。……第二に、公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。……公共性は、複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間であり。逆にそうした〈間〉が失われるところに公共性は成立しない。第三に、共同体では、その成員が内面にいだく情念(愛国心・同胞愛・愛社精神等々)が統合のメディアになるとすれば、公共性においては、それは、人々の間にある事柄、人々の間に生起する出来事への関心である。公共性のコミュニケーションはそうした共通の関心事をめぐっておこなわれる。……最後に、アイデンティティ(同一性)の空間ではない、公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属を求めない。……公共性の空間においては、人々は複数の集団や組織に多元的にかかわることが可能である。かりに「アイデンティティ」という言葉をつかうなら、この空間におけるアイデンティティは多義的であり、自己のアイデンティティがただ一つの集合的アイデンティティによって構成され、定義されることはない。(前掲『公共性』)

「共同体」を上記の意で用いると、「公共性」は「共同体」と異なり、「同一化」とそれに伴う「排除」に抵抗するものであるから、複数の価値を許容し、共通の関心事によってコミュニケーションがなされ、アイデンティティも多義的であるという性質を持つ。現代の都市は、血縁的共同体が可能であった前近代社会とは異なり、寝床としての住む場所と、働く場所・教育の場所が異なり、それゆえそれぞれの場所での構成員の価値観やアイデンティティも複数性や多義性を有する。このことからも、ここでいう「共同体」の実践がいかに不可能に近く、「公共性」の実現に可能性があるかということがわかる。
しかし、ここで問題なのは、現在の都市と「公共性」の関係をどのように捉えるのか、ということである。そのためには、現在の都市の状況と、「公共的空間」はいかに異なっているのかについて考える必要がある。それは、おそらく二つの問題を孕んでいる。一つ目は、都市の規模に関係している。なぜなら都市の規模が小さければ、「公共的空間」でイメージできるような、つまり各々の主体が各々の価値観に基づき、意見を語り、他者のそれに耳を傾けるという討議の空間はイメージしやすいからである。しかしこのように肥大化し複雑化した都市では、マクドナルドに見られるようなグローバルな資本や制度によって街が作られ意思決定がなされていく(それは郊外化という問題に顕著に表れている)、そのような状況下では先のような討議の空間はイメージすることはほぼ不可能である。つまり、現在の状況下で「公共的空間」が実践され得るとしたら、それは都市的な規模の環境ではなく、別の形態をとる必要がある。
もう一つの問題は、「公共性」の条件でもある、複数の価値観、世界の捉え方がある中で、それらの間にある「共通世界への関心」がコミュニケーションのメディアになるという前提が機能しないのではないか、ということだ。なぜかというと、現代社会とは、哲学者のジャン=フランソワ・リオタールが指摘したように、「大きな物語」の終焉、つまり社会全体で共有できるような理念やイデオロギーを失うことによって、世界の複雑性を縮減することが不可能になった社会であり(これは先に述べた規模の問題にも通じている)、そのような状況下では、「世界への関心」を保持することはできず、代わりに「生命への関心」が強まるからだ。それはセキュリティの問題が過剰に叫ばれる現代社会に顕著に表れている。現代社会において「公共性」を獲得するためには、この「世界への関心」をいかに形成できるかが重要となる。
以上のように、「公共性」の獲得が、現代のグローバル化した都市や「すまい」の環境下でいかに可能性があり、そしてそれは同時に不可避の問題や限界を孕んでいるかということを論じた。

3. 「公共性」における建築の可能性

先述した「公共性」の可能性と限界に対する認識をもとに、いかに建築がこの「公共性」に関与していけるかを考察する。建築のどのような価値がそれを体現していくのだろうか。
先述したように「公共性」は政治的概念であり、建築の象徴的機能はファシズム建築に顕著であるように政治的な機能を持ち得たこともあった。しかし象徴とは「同一化」を志向するものであり、「公共性」とは根本的に異なる方向性を向く。だからそれは意思決定の過程につながり、建築設計、施工などの一連のプロセスに見いだされるはずである。ではそこでの建築の可能性とは何だろうか。それは、建築の物理的側面に関係してくる。
建築とは物理的な限界を伴ったものであり、人々の生活や行為を物理的に制限するものである(それは身体性とも言える)。かつ、建設するためには非常に大きな労力や資本を必要とし、その解体や修復も同様である。なぜこのような建築の性質が可能性として挙げることができるのだろうか。それは極めて当たり前だが、まちには「建築」が必要不可欠であり、誰もが関与しているからだ。そしてそれは、ウェブなどの情報環境とは異なり、集合的な意思決定のプロセスを経て構築されたものが不動であるという場所性を有している。つまりここには潜在的な公共性と、その実践である意思決定プロセスの場所への表象としての可能性がある。
しかし前節で述べたように、「公共性」は各主体の「世界への関心」によって成り立つものである。また、同様に「規模」の問題があり、それらの問題をどう乗り越えるのか。これらは問題であると同時に可能性でもある。次節では、それらをふまえた上で一つの仮説を提示したい。

4. コミュニケーションメディアとしての建築のルールという可能性

建築を設計するプロセスではなく、その設計の前提となるルール(例えば法規など)をコミュニケーションのメディアとして扱えないだろうか。それらを議論する環境が「公共的空間」となる。これらは、各地域によってそれぞれ作られて良い。景観法などによって、地域一丸となってまちづくりを実践している鎌倉など地方の街がこのイメージに近い。しかし、京都や鎌倉など、幻想だとしても「○○らしさ」というものが思い浮かびそうな街は、その景観が地域固有の価値だとして、「公共的空間」をつくるコミュニケーションメディアになりそうであるが、なんの特色もない郊外ではどうなるのであろうか。それは、固有性があると思われている街とは反対に、その価値を作り出すというモチベーションのもと建築を捉えればよい(実はそれは固有性があるように思われる街でも同様である)、そのための潜在的な可能性は建築の場所性が有している。そしてその議論されたルールは、建築そのものと異なり修正可能であり、その都度更新していくことによって、「公共性」の前提である価値の複数性は反映されていく。さらにそれは、暫定的に建築のルールとして適応され建築を通し場所に表象されていく。つまり意思決定のプロセスがまちに保存され蓄積されていくのだ。またこうした環境は「世界」と「個人」を媒介し、「世界への関心」を強めていくだろう。それはグローバリゼーションとローカリティーの問題を考える上でも、そのどちらにも批判的な第三の道のモデルとして提示できるはずである。
以上のように、建築がいかに「公共的空間」に参加できるかという問題意識のもと、それを可能にする仮説を提示した。しかし、これも建築と「公共性」の関係を考える上での一つの試みに過ぎない。重要なのは、いかにその環境を作っていくかということを問い続けることである、それこそが「公共的空間」を実践してくのである。

審査委員コメント

ルールを決めるという手続きが公共空間を生み出す原動力になるのではないかという、いわば方法論を提案しているところに興味をもちました。それが具体的にどんな空間になるのかといったところまで踏み込めていなかったのは残念ですが、問題設定の仕方には強く惹かれました。(千葉学)